【 コラム 】 拙著のテーマに関連した四方山話です

堤防を二重化し、その間を自動車専用道にする
堤防を二重化し、その間を自動車専用道にする

086-4 堤防の改良と川沿い道路 2019/10/20

 

 先日の台風19号は、東日本の降雨を最大にするルートを通ったそうで、史上最大規模の降雨を前に、河川行政は大規模な災害を防ぎつつも、東日本全域で氾濫が起こりました。越水だけならば被害の規模も限定的ですが、千曲川では越水した水が堤防の外側をえぐる形で決壊させ、同じことは数年前の鬼怒川の決壊でも起こっているので、堤防の改良は急務と言えます。

 具体的には堤防の外側の傾斜をなだらかにしてコンクリートで覆うような形になると思いますが、ここでは景観や道路の配置も考えた別のアイデアを考えてみています。

 

 川沿いに道路を建設する場合、まず考え付くのは、堤防の上を道路とするもの・・・堤防の上を通って河川敷に行く人にとっては危険な横断が必要になりますし、堤防の機能からして下をくぐるわけにも行きません。また、堤防の上の道路を重量のある車両が通ってダメージを与え続けることになり・・・幅をたっぷりとって堤防の強度を極限まで高めた「スーパー堤防」なるものも考えられているようですが、そこまで土地に余裕があるのであれば、もっとうまいやり方も見つかりそう・・・

 堤防の上は自転車道として、この自転車道や河川敷へ行く人は歩道橋を渡って道路を越える、これによって、自動車用の道路の存在は気にならなくなります。歩道橋は1キロに2箇所くらいは必要になるかもしれませんが・・・

 仮に道路の制限時速を60キロとしても、その速度で巡航できるので、かなり使い勝手の良い道路になると考えられます・・・(本書:p244)

 

 これが本書で示した川沿い自動車専用道の例ですが、これと堤防の強化や安全対策とを絡めると、こういうアイデアにも帰着します。

 

 仮に、スーパー堤防を築くほどの土地が確保されているのであれば、堤防を二重にして、その間に道路を作るという方法も考えられ、そうなると河川敷にも堤防の外にも騒音が洩れないので、住環境などにとって望ましいものになると考えられます。幕政期には、堤防を二重にして、中間の農地は年貢を免除することで、出水の際には土地を持つ村が総出で内側の堤防を守るようになっていたそうで(勝海舟『氷川清話』)、それになぞらえて、二重堤防の中間の道路を河川局管轄の道路にすれば・・・(本書:p245)

 

 この道路は橋詰の箇所で立体交差があるだけの自動車専用道になり、起伏もないので特に大型車両にとっては使いやすい道路になり、騒音が住宅地に到達しにくいという意味でも環境に適した道路になります。

 道路に面した法面はコンクリートで補強し、内側の堤防で越水しても持ちこたえるようにし、もちろん、内側で越水が起こった時点で住民は避難することになり、決壊の可能性を低くし、越水時の被害を最小限にとどめることになります。

 

銀座 晴海通り
銀座 晴海通り

067-7 銀座のまちづくり 2014/01/18

 

 銀座という町は、江戸期からの中心繁華街であった日本橋とは異なり、明治の末頃から発展した新しい町であったようで、明治五年の大火を機に都市計画により整備された煉瓦造りの町並みに、新聞社や出版社がオフィスを構えて独特の文化を醸成し、後に進出してきた百貨店も銀座らしさにうまく溶け込んで相互に発展したと言われます。
 日本一の商店街でもあることから「銀座」というブランドに関しては、自身は「希少価格」の説明にも引き合いに出しています。

 

 例えば「東京」の「銀座」というブランド名の地面の供給量には弾力性がないので、需要に応じて非常な高値で取引され、高い地代や家賃に見合う形での高度な土地利用がなされているということになります。それでいて、公道上の自動車の走行はこうした市場の原理には乗らないため、地価の高い地域ほど道路行政は割に合わないものになり、これを政策的に処理しようとすると、ロードプライシングのような制度が必要になることもあります。(拙著 p181:高速道路とはなにか)

 

 昨年の11月に出た、竹沢えり子銀座にはなぜ超高層ビルがないのか ~まちがつくった地域のルール~」(平凡社)という本を見つけて読んで、拙著との関係からもいろいろ思うところをまとめてみます。

 

 政府の都市政策の転換とそこに密接に関わったディヴェロッパーが水面下で準備した計画が唐突に示されるのに対して、多くの地域政策は翻弄されるばかりでありながらも、頭の固い商店街の古い体質が再開発を阻止しているという図式で喧伝されがちですが、銀座の旦那衆は、小さな商店主の集まりであることを自認しながら、それまで暗黙の裡に共有されてきた「銀座らしさ」という街のコンセプトを「野暮だけど」ルール化していく作業を進めることで、中央区とも協力して野放図な規制緩和に歯止めをかける方向に動いているようです。

 

 この「銀座には・・・」という本は、図らずも現代のまちづくりの問題を網羅するような内容になっていますが、その中で、メディアに左右されにくい銀座の人々の見識を感じるのは、まず「専門家選びは慎重であること」という条件があることです。

 

 日本の町人地では、伝統的には紳士協定の中で競い合うように建前を競い、それが町並み全体を美しく発展させてきたのに対して、戦後の日本では、イギリスのような厳しい規則はおろか、家屋の前面のラインを規定する「建築線」すらも「民主的でない」との理由で廃止され、「高さ制限」も容積率によるコントロールに変わり、さらにはその容積率でさえも大口の事業者にボーナスが与えられるなど、自由極まりないとも言える状況の中で建築設計が行われてきました。その方向性は、「表現の自由」を標榜して規制緩和への圧力をかけ続けてきた日本の建築家が望んだものでしたが、その結果すばらしい町並みや安全な住空間を提供できたものなのか、そもそも表現の自由の目的がどこにあったのかを考え直す必要もあります。
 そうした自由な流れとは逆行する形で、あらかじめ厳しい規則を定めて町づくりを始めたのが、千葉県の幕張ベイタウンの住宅地で、デザイン自体の好き好きはあるとは思われるものの、簡単に言えばイギリスの条例のようにテラスハウスしか作れないルールを決めて作るだけで、良質な集合住宅が供給できた好例であると考えて良いと思います。(拙著 p434:テラスハウス成立の背景)

千葉市 幕張ベイタウン(拙著p434)
千葉市 幕張ベイタウン(拙著p434)

 自身は、幕張ベイタウンの事業の結果だけを眺めてまちづくりの戦略を感じて興味を持ち、その背景にオランダやイギリスに似た厳しい規則があったことを知るようになったのですが、実はその中心にいた人物こそが、定年前に建設省技官から民間に降ってまちづくりの現場に立つようになった蓑原敬という人であることを、この「銀座には・・・」を読んで初めて知ることができました。


 つまり銀座の人々は、慎重に専門家を選別した結果、建設省や建築家の手法を知り尽くしたこの人物を味方にし、さらに洗練された情報と戦略を得ることで鍛えられ、六本木ヒルズの工房で事業の詳細な模型を見せられても、「言っていることは正しいのかもしれないが、僕たちとは観点が違いすぎる。このプロジェクトを、何も銀座でやらなくてもいい」(「銀座には・・・」p121)と看破するようになって行きます。

 

 また自著では、「日本の高層ビルが武家屋敷のイメージを反映し、都市との必然的な関係を持たない(拙著 p361,367:ベルク『都市のコスモロジー』からの引用)」という認識がまちづくりには重要であると考えたのですが、銀座の人々も、丸の内や汐留、六本木のような大名屋敷跡の再開発とは異なり、町人地が発展してきた銀座らしさを保つためには、街路と建物との関係は重要な要素で、それゆえに「銀ブラ」が楽しめることになるのに対して、再開発によってできる大きな施設は街路との関係を拒絶するような空間になってしまう、と否定的な見解を示しています。

 

 経済学者であった森泰吉郎氏が興し、虎ノ門界隈で政府の特殊法人を主な店子とした中規模のオフィスビルを地道に整備して拡大してきた森ビルが、バブル前の時代にアークヒルズという再開発事業を完成させた背景には、森ビル自体のブランド価値を高めて家賃の水準を引き上げる目的があると当時は報道されていました。その後、御殿山、元麻布、六本木、表参道などでも再開発を成功させてブランドイメージはさらに高まり、次なるターゲットがこの本の舞台である銀座6丁目であったようですが、過去の再開発はいずれも地名自体にブランド力のある地域であることが特徴で、お台場や石川島、幕張などのように特にブランド力もない新開地を人気のある街へと変えていくだけの力量やヴィジョンという点では未知数と言えます。

 

 そもそも、高層アパートと、見下ろされる側の低層住宅地とでは、セキュリティの点でも考え方が異なるようです。東京の元麻布は古くからの低層住宅が並ぶお屋敷町として知られ、規制緩和によって30階建てのマンションが計画されたときには3000人の反対署名があったそうで、これに関して事業主の方は、

 

  理解していただいたのですが、3年かかりました。長時間かけてコツコツと説得し

  たのですが、まだ反対している人もいます。高層住宅に対して、まだ非常に抵抗が

  あるんですね。私自身も高層住宅に住んでいて、絶対にいいと思うのですが。

 

と述べていますが、低層住宅地の中に作る必然性には意識が及んでいない可能性があります。住宅地であれ、商業地であれ、あるいは農村であれ、人が町に集まって暮らすというのは、自由な個人でありながら、犯罪やその兆候を敏感に察知し、共同で安全を維持するための双務的な役割が存在し、ニューヨークでも密集した下町地域ほど、追いはぎのような犯罪から、周辺住民が助けるようなケースが見られるそうですから、大都市から農村まで、世界中の都市生活の特徴と言えるでしょう。

元麻布の高層アパートと古刹 麻布山善福寺
元麻布の高層アパートと古刹 麻布山善福寺

 これに対して、高層住宅のセキュリティ管理の手法は、オフィスや工場と同じように常に門番がいて出入を集中的に管理する、あるいは敷地全体を柵で囲んで一括して管理をするような「砦型コミュニティ」と呼ばれる手法が必要になるそうで、一般の住宅地のように自由な出入を許しながら、住人の縄張りのようにヒューマンスケールで管理する手法はとりにくいと考えられます。実際に、片廊下型の高層アパートで、廊下への外部からの出入が可能な場合は犯罪に巻き込まれやすいことや、避難経路がそのまま犯人の逃走経路になりやすいことなどが古くから指摘され、アメリカでは、セントルイス市に建設されたプルイット・アイゴー団地のように、犯罪の温床になった挙句、存続を諦めて街ごと爆破解体された街区もあるそうですし、日本でも凶悪犯罪の舞台になるケースも見られます。
 住宅地の中に高層アパートがあると、クルマで通り抜けて高層住宅に出入する人も増えるでしょうし、そうなると住宅地にある必然性はなくなり、少なくとも立地としての相性が良いとは言えません。(拙著 p365:「高層アパートの魅力」)

 

実は、この事業主というのも森ビルの森稔氏で、高層住宅の良さに関する認識はともかく、なにもその事業を麻布の高台の古いお屋敷町でやらなくても良いはずですから、事業の成功のビジョンがあるとすれば、地名や立地から来るブランド力と、それまでの紳士協定を破る規制緩和にいち早く乗じる機動力との結合であると極言することができます。
 ただ、森氏は単に政府に通じたディヴェロッパーにとどまらない信念を持った事業者なのだそうで、竹沢氏によると、

 

 さて、銀座の街は小さな敷地に建つ小さな企業の集合体である。碁盤の目に走る通りはほとんど商店街であり、上層階に数あるオフィスも比較的小規模なものが多い。丸の内の三菱、日本橋の三井に匹敵するような大手デベロッパーや巨大企業は存在しない。これまで銀座で大手デベロッパーが大規模再開発を試みた歴史もなかった。

 そこにやってきたのが、都市再生の波に乗って政府の後押しを受けながら次々と超高層ビルを建設して話題となっている森ビルである。社長の森稔は、たんに不動産開発で経済的利益を追求しようという考えの持ち主ではない。ル・コルビュジエの描く「輝ける都市」を背景とした確固たる都市像をもち、その理想に向かって進む信念の人である。すなわち、超高層ビルに商業、住宅その他の機能を混合して集約し、建物の周囲は緑豊かな空間にしようという都市像である。銀座の都市空間とは対極にある都市像といってよい。(「銀座にはなぜ超高層ビルがないのか」p90)

 

 ここでいうル・コルビュジエというフランスの建築家は、日本の有名建築家の師匠筋、モダニズムの家元的な存在として今なおもてはやされていますが、まちづくりに関して言えば、魅力よりは問題点の方が重要な意味を持つ存在で、

 

都市計画に関して先駆的な著作を数多く発表しますが、その要諦は「住むための機械」であり、日本の高度成長期の団地のように板状の高層ビルが低い建蔽率で並ぶ住戸に、二階を高架の道路や鉄道が通り一階を歩行者用にするような人口地面を多用した近代都市で、今でもまっさらな土地に造られる都市機能はこうした形態が多いようです。
 けれども、この人の都市計画の進め方を見ると、自身のイメージを実現するのに性急で、それをドンキホーテ的な楽天性や無邪気さと言えば聞こえはよいものの、むしろ、幼稚で粗雑、あるいは尊大な面ばかりが目に付きます。自身の「三百万人の近代都市」のような壮大な構想の実行のために、「朕それを欲す」でことが進むルイ14世のような強い権力を待望し、王の下でパリの計画を行った宰相コルベールや、ナポレオン3世の下でパリの大改造を行ったオスマン男爵などの立場を理想と考え、自身のパリ計画でも、荒廃した地域の再開発ではなく、歴史的にも不動産的にも価値の高い中心街を自分の構想どおりに作り変えることを目指していたと言われます。

 政治的なイデオロギーとは無縁であったと言われますが、自身のイメージの実現のためには、どんな政権でも利用しようとした点に特色が見られます。スターリンの記念碑的建築物のコンペに参加し、ムッソリーニに近づくために好意的に書いた自著を献呈し、謁見して自身の計画を売り込んだほか、資本主義では彼にすべてを任せてくれるような独裁者がいないために恐慌が起こると考え、サンディカリズムに希望を抱いて近づいたりもしています。建築家を目指してウィーンの美術学校を受験したこともあるヒトラーだけは、モダニズムを毛嫌いしていた上に、アルベルト・シュペアという忠実な御用建築家もいたため、ル・コルビュジェがナチスに取り入る余地はなかったものの、ナチスの傀儡ペタン政府には近づいています。自身のアルジェでの計画を説得するためにペタン政府のあるヴィシーに18ヶ月間滞在したときも、ペタン元帥に会えれば彼の計画の正しさはすぐさま認められて、担当者が呼ばれて即座に実施されるという子どもじみた空想を本気で思い描いていたとも言われます。運動の甲斐あってヴィシー政権では住宅などの計画の委員になりますが、アルジェ市が全く別の案を採用した際に、アルジェに飛んでこれを強引にやめさせようとしたために、ペタン政府からも縁を切られてしまいます。(拙著 p30:「ル・コルビュジェとはだれか」)

 

 このほか伝統的な「軒」の存在は、雨から壁を守るのには重要な役割を果たしたようです。例えば、フランスの建築家ル・コルビュジェが設計した「サヴォア邸」(1931年)は、白い幾学的な箱が空中に浮いたようなデザインで、その斬新さは日本の多くの建築家に強烈な影響を与えたといわれますが、ル・コルビュジェの初期のこの様式は雨漏りや壁へのダメージが深刻で、中には上に傾斜屋根を付加して雨漏りを防いだ例もあり、竣工直後から雨漏りが始まったサヴォア邸を最後に、ル・コルビュジェ自身がこの白い箱型の建物を作らなくなったほどだそうですから、デザイン重視で雨じまいを甘く見てはいけないようです。(拙著 p446:「雨から壁を守る工夫」)

 

 したがって、銀座に二百メートルの高層ビルを作る計画は、ル・コルビュジェのように野心が先走った無邪気な発想とは言えないもので、やはり世界一の地価の土地に容積率のボーナスを設定して、濡れ手に粟でブランド化された床面積を手に入れるという、経済学的に合理的過ぎる手法である可能性の方が高いと考えられます。「銀座には・・・」では冷静で客観的なルポの形ながら、銀座の街を守る旦那衆の戦いの緊迫感を伝えますが、ディヴェロッパーの底意を挫くことには成功してもどこか気分が晴れない、じっとりと脂汗がにじむ不毛な神経戦を終えた後のような読後感も漂い、街を守ることというのはこんなにしんどいものなのかと暗澹とした思いも募ります。


 それでも地域が戦わなければ街を守れない、天下の銀座とはいえその例には漏れないというのが、今の日本社会の実力であって、ディヴェロッパーや制度に対してさまざまな憤りを抱えながらも、あくまでも紳士的に対応し、銀座らしさを言葉に紡いでいく旦那衆の発言の品性や良識自体が、銀座らしさそのものを表しているとも言える、いわば良質の銀座論にもなっていますから、地方都市のまちづくりを考える上で見習うことのできる部分は多く、この分野に興味のある方にはお勧めの本です。

ル・コルビュジエ風モダニズム高層団地の失敗例として知られるプルイットアイゴー団地跡地。基本設計はニューヨークのWTCの設計でも知られるミノルヤマサキ。Pruitt–Igoe, St. Louis MO

 

オーストラリアの高速道路:本線上のETCと側線の「一般」
オーストラリアの高速道路:本線上のETCと側線の「一般」

035-4 ETCの普及戦略  2011/11/1

 

 2008年のいわゆるリーマン・ショックに端を発した世界的な不況に対して、発足したばかりの麻生内閣が行った景気対策は、大規模な公共事業を行わずに、商品券やエコポイントなどによる消費を刺激する政策が中心で、国際協調もあって効果を上げて深刻な状況を回避しましたが、その中で高速道路の上限千円の施策は、メディアが内閣をなにかとクサし続けていた当時はその技術的な面が評価される機会がなかったものの、景気対策としても道路行政の面でもなかなかよく考えられた、国土交通省関係として大変なヒット政策であったと言えます。

 

 景気対策として見れば、大不況であっても都会には安定した給与所得のあるサラリーマン層がいて、その消費マインドを刺激すると同時に、都会に偏在した富をなるべく地方の末端に行きわたるようにする効果があり、高速道路の減収分を補填するだけなので政府の持ち出しもそれほどの規模ではないにも関わらず、普段はガラガラの北陸自動車道も渋滞して能登半島の先端部でも観光客が増えて土地の人々も喜んでいましたから、この政策が地方の経済を支える効果は大きかったと思います。

 

 ETCというシステムやその価格設定には旧道路公団の利権が絡んださまざまな問題があることが猪瀬直樹氏によって指摘されていましたし、千円高速がETC限定であることを「不公平」と批判する人もいましたが、利用するためには個人の判断で数万円の先行投資をする必要があるという点でも消費を促進して関連する需要を創出する効果があり、何よりも利用者が増えた際に、料金所渋滞が本線まで伸びるような危険が発生しなかったことは、この政策が成功裏に終えられた技術的なポイントであったと考えられます。

 

 ドイツでは、欧州統合の影響などでアウトバーンの交通量が増大したことから、大型車両の一部有料化も始まっていますが、これに対するオランダの見解は、有料化には賛成であるものの料金の収受方式は合理的なものでなければならず、最終的には燃料費への転嫁が望ましいというもので (本書 p190)、これは欧州の高速道路の基本的な考え方でもあります。

 これに対して、日本の場合は少なくとも大都市圏の高速道路では無料開放せずに恒久的にオプションとして残す方が合理的なので、景気対策のついでにETCのような収受方式を普及させたことは次の手を打つ上では重要な過程であったと思われます。

速度が遅いと容量が増加する(p73)
速度が遅いと容量が増加する(p73)

 ETCレーンの通過の際には時速20kmまで速度を落とすことになっていますが、利用者としては当然なるべく速度を落とさずに通り抜けたいと考えるもので、実際には時速60km程度で通過できるシステムも技術的には難しくはないはずです。
 当初はそうした意識差に起因して、高速で通過しようとしてバーを折ったり、係員がその処置の際に通過車両にはねらりたりというトラブルも頻発しましたが、最近では利用者も学習して、きっちり速度を落として通過する車がほとんどになりました。

 

 実は、時速20kmというのは、まちづくりを考える上では重要な数字で、速度が遅いほど安全な車間距離は短くできるため通過容量はむしろ増大し、戦前の文献で見つけた式によれば、そのピークはグラフのように時速16kmほどのところにあるとされます (本書 p73)

 これは、たとえば首都高速の交通量が最大値を示す際の平均速度が時速20km前後であることからも傍証されますし、ETCのシステムの開発者がそれを知らないはずはありませんから、あえて通過速度を低く抑えたのには通過容量を増大させる目的もあったものと想像されます。

 

 実際に、千円高速政策の前後で大きく変わったことは、本線料金所におけるゲートの数が少なくなったことで、ETCレーンは本線の車線数と変わらない程度、つまり本線が3車線ならば3つだけで、これに「一般」レーンが左端にひとつだけというのが普通になり、それでも料金所渋滞というのはほとんど見られなくなりました。
 かつての本線料金所は大きく広がっていて、少しでも早そうなゲートを探してハンドルを切って分散していくものでしたが、最近ではそれまでの走行中の前後左右の関係をそのままに、おとなしく前の車に着いて数珠つなぎになって通過すれば、ほとんど問題は発生しないことが認知されつつあります。

 

 したがって、ETCが普及してしまった現在では、もはや本線料金所に広い空間は不要になり、既存の区間に料金所を新設してもそれが渋滞の原因になることはなく、その他首都高速を距離別料金制にしたりという様々な施策が打ち出せるようになりましたから、この点では合理的なヴィジョンに基づいた政策が着々と準備され、景気対策に乗じる形で一気に進んだという見方が可能です。

 

ヘルシンキ市内の住宅地/ Helsinki
ヘルシンキ市内の住宅地/ Helsinki

012-7 ヨーロッパの暗さと明るさ  2011/4/9

 
 関東地方では、初めは冗談にも思われた停電を、有無を言わさずきっちり行うことになったため、泡を食った人々は慌てて対応を始めました。
 効果のほどは不明ですが、それまで煌々と輝いていたネオンばかりでなく、店の存在を示す小さな看板に至るまでが消灯されるようになり、近くのターミナル駅などはコンコースの照明をことごとく消してしまったためにさすがに危険なほどで、かつてのGHQの指令に似た錦の御旗としての「東電からの要請」を理由に、公共的な役割を担う人々ほど率先してサービスをサボり始めているように見えます。
 ただ、やりすぎの状態ではあっても町の風景が変わったのは確かで、暗く抑えられた灯りがどことなくヨーロッパのトーンを感じさせるという意見を複数の友人からも聞きましたから、こうした状況を奇貨として、もう少し詳細に見直すことで今後の方向性を考えてみたいと思います。

 

 欧州の北部はメキシコ湾流や偏西風の影響で、樺太北部並みという緯度の割に寒さはそれほどではないのですが、日差しの弱さ、冬の夜の長さは緯度なりのもので、加えて冬が雨季に当たるため、毎日のように霧が立ち込める冬の陰鬱さは、暮らした者でなければ想像がつきにくいもので、ホメロスの『オデュッセイア』の中でオデュッセウスが下りて行く黄泉の国の描写が、当時のギリシャ人が到達していたブリテンの冬の光景ではないかという説もあるほどです。

 人種的には、背が高く手足が長い南方系のアーリア人が高緯度に適応して、弱い紫外線でもビタミンDの合成ができるように色素が少なく、裸のままで外にいるのが平気なゲルマン人のような人種が生まれたようで、灰青色の目は明るさや紫外線に弱い反面、驚くほど暗い中でも本が読めたりするので、これと比較すると、はじめから一枚サングラスが入っているような日本人の目には、どうしても少しは明るさが必要であると言えます。

 では、日本の町の明るさはヨーロッパに比べてどうかというと、なんとも言えないところがあって、安全を保つために足元や人物を照らす照明の明るさと、人々の目に入ってくるサインの光の刺激の強さとを分けて考えないとうまく比較はできません。

 

 谷崎潤一郎の有名なエッセイ『陰翳礼讃』では、昔の京都の暗さを想像することから始まって、白粉や鉄漿の美的な意味を論じていますが、これは目が闇夜に暗順応した上での明るさ、月の中ほどなら月明かりさえまぶしいほどの暗さをベースにしていて、たとえば今昔物語の時代の夜には夜盗のような現実的な危険性を持った「鬼」たちが夜行していたはずですから、現代で必要な明るさという点ではあまり参考にはになりませんが、ただそうした現実が少し前までの日本にあったからこそ、日本人はヨーロッパの街路の明るさに夢を抱き、それが高じて白く輝く世界へ追求がやまなかったのであり、エネルギーがある限りはそれを顧みるという機会は少なかったものと思われます。

 

 地震のあった当日は、何駅か分を歩いて深夜に帰る途中、日本のおまわりさんたちが、大災害から市民の安全を守る役割よりは、自転車で帰る市民を誰何するという日常の業務に勤しんでいる光景ばかりを目にしましたが、日本では、自転車で夜に走行する場合はライトをつける義務があり、特に都会では警察による無灯火の取り締まりが厳しいのに対して、オランダでは初めからライトのない自転車が多く、要はライトをつけなくても危険ではない程度まで、街路と視界を明るく保つのが行政の義務でもあるようで、具体的には、車道からも歩道からも独立した自転車専用レーンをきちんと保つことと、均質で危険なスポットのないように必要な明るさが保たれていて、純然たる住宅地でも、市街地が途切れて農地の中を通る道路であっても、この原則は保たれています。
 その反面、都会の象徴であるネオンサインに関しては、日本のように強い刺激をもたらすものは少なく、クリスマスの飾りなども、暗さがピークを迎える時期にほんのり灯りを添える程度のもので、その点では一口に「欧米」と言ってもアメリカとは大きく異なる、抑制の利いた文化が存在します。
 こうした欧と米との違いを、文化の面で強調することも一興ではあるものの、それだけでは心地よく経済的な解答を得ることはむつかしく、安全を保つための必要な明るさと、目に刺激を与える明るさとを切り分ける技術が必要になるものと思われます。

 

 そこで、自著には盛り込まなかったものの、うまく両立させる制度として腹蔵しているのは、照明も広告の明かりも含めて、私的な灯りを設置できる高さを制限してしまうもの、具体的には、一階の高さまではどれほど明るい照明や広告を設置しても良いけれど、たとえば5m以上の高さには光を発する広告を設置してはならないという規則を作っただけでも、街の風景はメリハリの利いた、安全で華やかで落ち着いたものに近づくのではないかと考えています。
 つまり、広告の高さが制限されてしまえば、その位置は歩道を歩く人の目の高さより少し上が中心になり、どのみち大した大きさは必要がないので、提灯や、古い商店街にありがちなボンボリ程度の大きさで十分で、明るすぎては目にうるさいので自然と明るさも抑えられたものになり、それでも足元を照らすには効率の良い光源になります。
 店の広告を大きくしたければ、店のファサードに沿って横断幕的な看板を設置することで道路の反対側からの視認性が高くなりますが、これとてそれほどの明るさは必要なく、それでいて店に近い歩道を明るく華やかにする効果があります。

 

 オランダの都市の場合、都心の繁華街を除くと近隣商業地にはシャッターがないお店が多く、夜間でも店内が見通せることで却って空き巣などの被害を防止するそうで、ディスプレーを兼ねたほのかな店内の明かりが道路の安全を保つ、という相互関係が存在しますが (本書 p395)、広告を設置できる高さが制限されることで、街路と店舗との相互関係は強くなるのではないかと考えています。

 オフィスの照明に関しても同じで、かつては天井が均一に明るい光源になって、無影灯のように手許を照らすのが理想と考えられたようですが、今では放物面などの反射鏡を配置して、蛍光灯の光が直接目に入りにくいようにする技術が発達し、オランダでは手許だけを集中的に照らし、上を見ると真っ暗に近いような雰囲気のオフィスが作られていると聞きますが(乾正雄『夜は暗くてはいけないか』)、これも、手許を照らす目的と、目に入る光の刺激とを分けて考えた結果であると言えます。
(2011/8/14 写真を追加)

 

018-2 エネルギーバランスについて  2011/5/29

 

  カルノー、君の気もちはわかる。わしは少しも君に同情心が足りないなどと言って

  責めはしない。科学は同情を超越すると君は言ったね。君と同様にわしもまたセン

  チメンタリズムには信用を持たない。だがわしは同様にイデオロギーにも信用を置

  かないのだ。
        ロマン・ロラン『愛と死との戯れ

 

 拙著の編集の過程で各章に扉を設けることになり、自身の文庫本の書棚の背表紙を眺めて、それなりに関連のありそうなフレーズを適当に抜き出して各章の表題に添えてみました(三章と四章は文庫版の引用した箇所に誤植を見つけてしまったために全集から引き直しました)。

 二章の扉に添えたのは、フランス革命の混乱の中で、常に冷静で毅然とした態度を保って革命や続くナポレオン時代にも功績を残したラザール・カルノーに言わせた台詞、

 

  すっかり打ち明けて言いたまえ。クールヴォアジエ!僕らは科学者だ。・・・・
  二人とも、「自然」の法則の苛酷さは知っている。

  「自然」はセンチメンタリズムには無頓着だ。
  「自然」は自分の目的に達するためには、人間の徳性を踏みにじって通る。・・・・

 

に対しての、狭間に立って悩むジェローム・ド・クルヴォアジェの返答でしたが、今の日本の大災害と続く不安の中で見ると、現代に通ずる射程を持った言葉かもしれません。そうして、奇しくもそのカルノーの息子のサディ・カルノーが二百年前に考案したカルノーサイクルが、今のエネルギー問題の鍵を握っていることになります。

 


 世の中の報道は、津波による直接の被害よりは、すっかり原発の問題に集中していて、原発に対する反対運動を続けてきた人々がここぞとばかりにエネルギー問題を論じていますが、思いつきの偏頗な意見が多いために、却って、問題を解決できるのは科学や技術であって、イデオロギーではないということを認識させられます。

 ただ、ここには科学や技術の本質的な弱点も見えているので、その責任に関して「政治」が結果責任を負う必要は生じてくるでしょう。たとえば、津波の想定規模をメーカーや学者が甘く見ていたことは事実だとは思いますが、実際に設計をする立場の技術者というのは、実は与えられた仕様を越えた危険性について考えることは極力避けるものです。もちろん想定を超えた危険性に気づいてしまう技術者もいるのですが、これに言及することは技術者としての立場を危うくするので、「次の商品」の戦略として「より高い津波にも耐える」ものを提案して、知的財産化することくらいが関の山です。

 そうして、もう一方の学者という人々は、もとより現実に起こっているあらゆる災厄について、なんの責任も負う立場にはないようで、そのため、発注元である東京電力に責任が帰するというのが世間の見方ですが、実際には通産省の戦略と指導のもとで、地域の需要や必要性とは無関係に各電力会社が原子力発電所を開発しているはずなので、最終的にはエネルギーのバランスに関する戦略を問い直さなければ意味はありません。

 

 確かに、直観的に言っても原子力というのはいやな感じがするものです。

 学生時代に常磐線でこの近くを通った時には、第二原発のある富岡に実家のある知人がいたこともあり、こういうところに実家があって親兄弟が住んでいる場合、なにかあった時のことを考えたらどういう気分なのだろうと想像しました。

 このときに一番強く感じたのは、電気を供給する側が抱えるいやな感じと、消費して利便を享受する側の都会の人間の脳天気さとの対照で、今がまさにその「なにかあった時」の状態ということになりますが、都会人の側は最後まで決してその問題には触れようとしないという現実も目の当たりにしています。

 

 今の段階では、原発は推進すべきか廃止すべきかという問いに正直に答えようとしたら「わからない」とするしかなく、少なくとも多数決で決められる問題でもなく、多数決で決めるにはあまりにも情報が知らされていないことも問題になるでしょう。
 通産省が主導してきた日本のエネルギーバランスについては、拙著で参考文献に使った『石油50年の歩み』(石油通信社)によってその概要を知ることができますが、この本自体が、関東地方の図書館で6冊(国立国会、茨大、県立浦和、都立中央、桜美林大、県立川崎)しか在庫が確認できないほどの希少な書物であったりします。

 ともあれ、これを基にグラフを作ってみると(プラスチックに変化する分の扱いが少し曖昧なままですが)、通産省の計画通りエネルギーの分散化は進んだことは明らかで、石油の輸入自体は、日本が経済大国になる以前からずっと横這いで、さらにはエネルギーの総量も1973年ごろに比べて4割の増加にとどまっていて、さらには主として自動車用に消費されるガソリンや軽油を除くと、27%の増加に過ぎません。
 そうして、水力などの自然エネルギーが担っている割合は5%に満たない程度ですから、これを主力にしたところで、賄えるエネルギー量は限られているので、本当にエネルギーのバランスの中で原子力の割合を減らしたければ、エネルギーの利用量を減らしながらなるべく生活の水準を維持する「技術」が必要で、実際には自動車を除くと、今の利用エネルギーを22%減らすだけで、1973年の水準に戻すことが可能なのですから、無理な数字ではありません。

 

 また、石油の精製技術が未熟であった時代には、重油のまま熱量を取り出していたのが、今では熱量を費やして需要の多いガソリンに変成させた方が高く売れるので、仮にガソリンの消費が抑制されれば、発電やボイラーに回す分を増やすことができます。
 ただ、家庭での温水器には重油は不向きでしょうし、実際には生活で必要な程度の温度の温水を沸かすには、いったん発電所で電気に変えて、家庭用のヒートポンプシステムで沸かす方が全体的には省エネになることが分かっていますから (本書 p466)、その方向に政策が向いてくれれば、晴れて原発を廃止することも夢ではありません。

 

 では、そもそも原子力開発の直接のきっかけでもあった化石燃料の使用はどうあるべきかということになると、抑制は必要であるものの、これを安易にバイオマスにシフトすることも気をつけなければなりません。

 

  カタイの土地では至るところに黒色を呈する一種の石があって・・・
  不思議にもこれが薪と同じようによく燃えるのである・・・
  薪が不足しているわけでは決してないが、何しろカタイの人口は非常に稠密

  で・・・
  実はこうすることによって多量の木材を節約しうるからである。
          マルコ・ポーロ『東方見聞録

 

  しかし五千年もしくは一万年前から、農業と製造がおこなわれているインドでは、

  基盤そのものが弱っている。森は消滅した。したがって薪がないので、食物を煮炊

  きするためには、畑が受け付けない肥料のようなものを燃やさなければならない。

          クロード・レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線

 

 実は、文明が起こる前までのメソポタミアはレバノン杉に覆われた緑豊かな土地であったと言われ、文明の発達によって森が蚕食されて次第に砂漠化したそうで、それが旧約聖書にあるノアの洪水の原因にもなったとする説もあります。日本の中国山地の山々も山陰の製鉄や山陽の製塩によって荒廃し、土砂が流されて行った経緯があり、ギリシアの山が灌木におおわれた痩せ地なのも同じ原因があると言われますから、未熟な技術のまま文明化を実現しようとしたら、近くの土地を荒廃させるか、他の地域を犠牲にするか、どちらもできないのであれば、ある程度は化石燃料に頼らざるを得ないのかもしれません。

 その化石燃料を有効に使うためには、ガソリン税の引き上げが効果的なのですが・・・・


追記  2011/6/7

 ちなみに、日本人が食糧から得る熱量を計算すると、グラフの単位(エクサジュール=10の18乗ジュール)で言えば年間0.5EJほどで、エネルギー全体の2%ほど。 

 消費する紙の熱量も同じ0.5EJほどで、こちらはリサイクルすると余計に石油を消費するだけなので (本書 p356)、熱量を取り出せば原子力の6分の1くらいは賄うことができます。 

 

068-3 古き良きアメリカの4ウェイストップ 2014/04/26

 

 ちょうど百年前にT型フォードが年間百万台も生産されたほど自動車の大衆化が早かったアメリカでは、自動車なしでは生活が成り立たないこともあり、自動車の運転が一般的に大人しく他者に対して優しいものであるのに対して、欧州人の運転は一般に荒くスピード狂の気味がありますが、欧州の場合は人々の性質がそうであるがゆえに、その危険から一般の歩行者を守るための方策が意識的に模索されてきたこともあり、参考にできる部分は多いと考えていますが、あまり人口が稠密ではない地域では、アメリカから学ぶこともあるのかもしれません。

 

 アメリカの都市伝説を検証するテレビ番組で、アメリカの四つ辻の交差点に多い4ウェイストップ(あるいは"All Way Stop")と欧州に多いラウンドアバウトとの比較実験が行われて、4ウェイストップが1時間に1500台なのに対して、ラウンドアバウトの方は、馴れないアメリカ人がほんの30分間練習しただけで4ウェイストップよりも2割多い1800台ほどという結果が出ましたが、ここではむしろ4ウェイストップの効率の良さに注目してみました。

 

 4ウェイストップというのは全方向が一時停止で、停止線まで到着した順番に交差点を通過していくというルールで、リズムに馴れないと つい先に着いた他のクルマよりも先に出てしまったりするのですが、アメリカ人は他のドライバーとのアイコンタクトをとりながら上手に順序良く出て行くことができるもので、必ず一旦停止する煩わしさや排出ガス量の増大などの問題はあるものの、安全と効率をそこそこ両立させることに成功した伝統的なシステムであると言えます。

 歩行者や自転車は優先させるのが原則ですが、アメリカでは住宅地以外では歩行者はほとんどいないものですから、日本のように歩行者や自転車が多い場合はもう少し工夫が必要になりますが、たとえば一方通行システムと組み合わせれば、各々の交差点への進入路の数は4から2になり、それでも一時間に1500台の通過容量が期待できますし、歩行者や他の車両との関係もはるかに単純化されて、より安全が保ちやすくなります。

4-Way Stop / Nashville, Tennessee
4-Way Stop / Nashville, Tennessee

 前述のように、対面通行どうしの交差点では信号のない交差点は不可能でも、一方通行どうしであれば、一時停止による規制でも十分で、そのやり方にも実情に沿ったさまざまな方法が考えられます。

① .幹線街路間に序列をつけて、優先道路を決める
 例えば、主要な街道を一対の優先道路に設定し、これと交差する道路を全て一時停止にするなど、さらに序列をつけていく方法で、優先道路ほど交通容量は大きくなります。  
②.交互に一時停止になるように設定する
 例えば、左方優先などの原則を設定して、200mの格子状の街路ならば400mごとに一時停止に当たり、それぞれの街路の一時停止の頻度は同等になります。

③.どちらも一時停止にして、先に交差点に到達した順に進むような交差点にする。
 これは、アメリカに多い4ウェイ・ストップと呼ばれる交差点を参考にし、一方通行どうしならば、先に交差点に入った順に、交互に譲り合って発進することになりますが、交通容量は少し小さくなります。
 アメリカの4ウェイ・ストップでも互いのアイコンタクトで事故を防止していると言われるので、それに似た譲り合う流れが生まれると考えられます。

④.坂の多い町などでは、勾配の急な上り坂を優先に設定することで、町全体での燃費を向上させることも可能です。

(本書p69:3-1-2 市街地内の道路はすべて一方通行に)

 

 以前の日本では、他者とのコミュニケーションを頑なに避けるクルマの運転者も多かったのですが、若い世代ほど、他者に気を遣うことや、道を譲られて礼を示すことに抵抗のある人は少なくなりましたから、古き良きアメリカのシステムというのも検討に値する段階になったと考えられます。

 

追記 2016/05/05

 

 日本でも4ストップの交差点を見つけました。

 両方向とも赤の点滅になっていて、戸惑う人もいましたが、ちゃんとアイコンタクトを取っていて、いずれにしろ大きな事故は起こりえないので、通常の信号機よりも効率が良く安全だと思います。

 

 場所は、原発事故の影響で、となりの村などから避難してきている人の多い福島県川俣町の市内です。

 

イギリス 湖水地方の風景
イギリス 湖水地方の風景

052-4 イギリスの田園風景  2012/7/15

 

 先日の、テレビ局のディレクターが海外のある国の生活を体験する番組で、オリンピック前のイギリスを訪れていましたが、食べ物や土地の習俗を面白おかしく紹介する趣旨ながら、ゲストの若い女性タレントたち(真鍋かをりさんや皆藤愛子さんだったと記憶しています)が、ディレクターが都市間を移動する際に見えるなんでもない典型的なイギリスの田園風景に歓喜のため息をついていたことが印象的で、拙著との関係を考えてみました。


 本書には、町を活性化させる上での「文化」の面での考察が欠けていると感じられる方は多いと予想されます。ここでは「文化」については、それぞれの人々の生き方と関係の深いものとしてマーケティングの対象とはするものの、それを可能な限り技術やインフラといった「文明」的な形にブレークダウンすることで、それぞれの文化を支える普遍的な土台を目指すことを旨とします。
 アイデア自体は、オランダやイギリスを中心とした西欧先進国に見られる実例にヒントを得て、日本への応用を考えたものが中心になります。これらの経済の発展段階の進んだ社会は、早くから現代社会のゆがみと伝統の破壊を経験し、その中で文化を守り伝統的な生き方を豊かに保つための工夫がなされたもので、その方法や技術は、比較的近い気候の土地には適用可能な普遍性が見られますから、これからの日本にも適した例になると考えています。(本書「はじめに」より:p6)

 

 本書では、経済のテイクオフが早かったオランダやイギリスの実例を参考に、町づくりの方向性を考察していますが、どういう景観を「好ましい」ものと看做すかについては「文化」の問題として一般の市民に判断を委ねようとしていて、こうした若い女性たちの反応をひとつのマーケティングの対象としてとらえた場合、それを実現する方法論を探ることが本書の課題でした。

 

そのほか、オランダの土木建築の豊かな資産については、本文でもたびたび触れたとおりで、合理的な営みの蓄積であるとともに、日本的な美質に通ずる繊細さも見られ、これからの日本人には馴染みやすいものであると思われます。日本に帰り、欧州でのそんな経験を美容院で話したところ、若い美容師さんが「夢のある話ですね」と言ってくださった、そのことが本書をまとめようと考えたひとつのきっかけにもなりました。若い女性だからといって、電飾や甘いものばかりに夢を抱くわけではない、むしろ若い世代が求めるのは、質素で効率がよく、自然も感じられ、豊かなコミュニケーションをもたらすような環境であると考えたからです。(本書「あとがき」より:p475)

 

 現実的な制度としては、オランダは、「どの1センチ四方の土地も用途が決まっている」と言うほど強い国土計画が存在し、土地が平板であるため写真で表現することは難しいものの、世界でも最も美しいと言える国土を築き上げていますし、イギリスでは小ぢんまりと引き締まった中世都市的な村を作ることと、庭園や田園風景を美しく再生しようとする国民の意識から、時間をかけて現代の田園風景を築き上げてきたものでした。

 

 まず道路の景観に関して、主に論じている学者の意見と、実際に利用する人々の感覚とに齟齬が見られるように思われますから、その点を少し考え直してみます
   ・・・
 イギリスの田舎には、「M3」のような「M」系列の名称が付いた高速道路の他に、「A」系列の名称の一般国道の多くが半ば自動車専用道化され・・・中央分離帯には高さが1mほどの潅木が植えられ、道路の両脇には「ヘッジロー」と呼ばれる、高さが1~3mほどのサンザシなどの生垣が続くのが一般的です。
 イギリスの田園風景は、コンスタブルの風景画そのままのたいへんに美しいものですが、幹線道路から見えるのはこのヘッジローだけで、これは先の学者の方々が考えるような「道路景観」のためというよりは、むしろ運転者にとっての目隠しのような役割に思われます。田園の風景を楽しみたければ、幹線道路を降りて田舎道に入るしかなく、その田園の側から見れば、幹線道路やその上を走る自動車の列こそが景観を台無しにする無粋な人工物で、これをサンザシの生垣の陰に隠してしまうことで、田園風景を守っているとも言えます。(本書4章/4-4地方都市のバイパス道路/自動車専用道を作る/道路の景観:p235)

 

 では、イギリスやオランダ人が芸術などの美学の面で卓越した感覚を持っていたかというと、世俗化された清教徒の多いこれらの国の文化は、むしろ芸術からは遠かったようで、

 

 英国で「芸術」(Art) という語が単独で用いられるようになり、「科学」「政治」「宗教」と同様に「芸術」について何かが語られるようになったのはごく最近で、それも外国人がそうするからそれを模倣したというだけの話です。もちろん、芸術、特に「美術」(Fine Arts) について語る慣わしは以前からあります。そして「美術」というとき、一般には二つの芸術形式、絵画と彫刻のことでした。ところが、この二つのものは、われわれ英国人がもっとも関心を示さなかったものであり、特に教養ある人々でさえも、室内装飾の一部、いわば一種の優雅な装飾品ぐらいにしか思っていなかったものです。この「美術」(Fine Arts) という言葉そのものが、軽薄なこと、どちらかと言えばくだらない対象に大げさな労力を費やすという考えを連想させました。つまり、小ぎれいな品物を作り出す安っぽいありふれた技術と違って、美術はもっと難しい技巧を用い、気取った連中が愛好して話題にすることで得意がるものであると思われていました。
   ・・・
もし私が「芸術」を定義するとすれば、「ものごとの遂行において完全性を求める努力」ぐらいに言っておきたい。もしもわれわれが、一箇の機械による製品であろうとも、そのような精神で作られたと思われる形跡を帯びた作品、つまりその職工がそれに愛着を感じ、それほどよいものでなくとも実際の用途に結構役立ち、できるだけ良いものにしようと努力したと思われる作品に出会うならば、その職工の仕事は芸術家の仕事と変わりがないと言えるでしょう。(J.S.ミル「大学教育について」) 

 

 J.S.ミルはビクトリア時代のイギリスの経済学者で哲学者でもありますが、現代のイギリスやオランダの国づくりに倣うことも、特別な天才力や最先端の技術を利用しなくとも実現できるという点で、日本の工業製品のようなアプローチで十分に実現可能で、同時にイギリスの田園風景やオランダの都市景観は「文化」としてもこれからの日本人に受け入れられやすいものであり、それを実現するための条件づくりもまた、特別な能力なしに実現できるものであると考えています。

 

056-3 ラウンドアバウトの通過容量 2012/10/20

  

 先日、たまたま「ラウンドアバウト(ロータリー交差点)」に関する "Wikipedia" の記事を見てみたところ、本サイト「中身チラ見せ1」の中で、十字路の交差点における「交錯点」に関する図(右図①)と(055-4 人、クルマ、電車の動線の時間的シェア)とよく似た図が現れ、それを機に現代の交通工学の方向性を考察してみました。

 

 この手の図自体は、実はクリストファー・アレグザンダー (Christopher Alexander)氏の「パタン・ランゲージ  (A Pattern Language)」(1967年)にあり、ここでアレグザンダー氏は街路の全面的改造により、すべて丁字路にするアイデアを示していますが (本書 p68) 、これは費用、安全、効率の点で望ましいものではなく、一方通行システムの導入や、自動車どうしの合流がすべて順方向でなされるラウンドアバウト交差点の導入が合理的であることは明らかです。

 

 そこで、実際のラウンドアバウトの通過容量はどの程度になるのか、調べてみたかったのですが、 "Wikipedia" の解説は意外なもので、

 

一般の十字交差点などに対して、ラウンドアバウトの容量(単位 時間に通過できる車両の数)は低いと言われている[国際交通安全学会, p.4]。ただし、信号のない十字の交差点と比べる場合は、交差点を突き抜けるときに、左右からの交通がどちらも途切れているときでないと通過できないことを考えると、ラウンドアバウトの方が有利であるともいえる[NYSDOT, p.3]。アメリカのTRB(Transportation Research Board)の発行したTransportation Research Circular-Issue 212(1980)によれば信号のある十字路の容量は最大1500台/時である[MassDOT 2006, Chapter6, p.6-27]。
それに対しラウンドアバウトの容量は1800台/時[Robinson, p.87 および Appendix A(pp.251-253)にこのモデルの説明がある。]ともいわれるが(単車線の場合)、このモデルで最大容量が実現した場合というのは、環道をとぎれなく車両が周回しているという場合であり、この時には当然他の車両は環道に進入できない[MassDOT 2006, Chapter6, p.6-25]。

 

 けれども、ラウンドアバウトで、ボトルネックになるポイントは、進入路から環状路に「合流」してから次に「分岐」するまでの間にあり、合流した後に「1800台/時」になるはずで、合流できないことにはなりませんから、ここではわざわざ勘違いに基づくアメリカの論文を探し出して説明を試みていることが分かります。

 

 ためしに英語版の解説を見ると、イギリスはラウンドアバウトに関しては圧倒的な先進国だけあって、内容も図版も豊富で、

 

ラウンドアバウトの容量は、進入路の数や環状路の車線数、環状路への進入角や車線幅も含めた幾何構造のわずかな違いによっても異なる。また、他のタイプの交差点と同様に、ラウンドアバウトの処理能力は様々な入路からの流入量に大きく依存する。一車線のラウンドアバウトでは、一日に20,000~26,000台を処理できると考えられている。

というような説明があるのですから、そのまま訳した方が読者には便利なはずで、わざわざ勘違している論文に基づく解説を書き込む「研究者」がいる日本では、ラウンドアバウトの容量をまじめに研究する風潮はない、むしろ学会をあげて研究を避けている可能性すら考えられます。

 

 では、実際にはどの程度の通過容量になるものなのか、本来は学者の研究の範疇ではあるものの、四則演算でできる簡単な検証を試みました。

 まず、簡単のために、長さ4.5mの乗用車のみとし、「コラム」の「035-4 ETCの普及戦略」で示したグラフ (右図②:本書 p73) を基に、環状路の最大の容量は 1,800台/時 ほどとし、さらには進入路の交通容量は、時速50kmの時の容量 1,250台/時 と仮定します。
 また、歩行者や自転車が平面交差する交差点では、歩行者との「交錯」の安全や効率を考慮する必要があるため、ここで「中身チラ見せ1」の「006-4 歩道を立体交差化したロータリー交差点(右図③:本書 p246) で示したような、自動車だけが交差するケースを考えます。

 日本の従来型の交差点が、交通流に合わせて、日々改良を受けているのに対して、ラウンドアバウトには、交通流が大きく異なる道路どうしの交差点でも、朝夕で流れが異なる場合でも、自然に調節されるという特長があります。

 

交通流の大きい幹線道路に交通流の小さいアクセス道路を接続した場合にも、ロ ータリーならば大きな交通流を阻害することもなく、小さな道路の利用者が極端に待たされるようなこともありません。幹線道路の大きな流れどうしは輻輳する ことが少ないので、幹線道路からロータリーに入るクルマが待たされる頻度は小さく、小さい道路からも幹線道路の片側の流れが途切れたタイミングで左折で入るだけで良いので、長い時間待たされることはありません。
 また、朝夕で混み合う方向が異なるようなケースでも、特別な対応策は必要がなく、その都度最適な形で効率よく利用されることになります。(本書 p89)

 

 そこで、ここでは、

 

1.各進入路の交通流が均等で、直進が

  50%、右左折が25%ずつ
2.各進入路の交通流がランダムで、

  Uターンする車もある場合
3.幹線道路と、小さなアクセス道路と

  が交差する場合
4.幹線道路が交差点で直角に曲がってい

  る場

 

の4つのパターンに対して、適当に交通流を割り振り、環状路の交通量が 1,800台になった場合か、進入路の交通量が 1,250台になった場合を「飽和」として、その場合の交通容量を推計してみました。

 

 結果から言えば(右図)、進入路の交通流が均等な場合で、最大 3,600台/時 という通過容量になりますが、それ以外のパターンでも極端に容量が小さくなることはなく、3,000台/時 以上の容量確保が可能であることは、むしろ驚きでした。

 

 平成22年の交通センサスによると、8車線ある東京の大森付近の第一京浜国道のピーク時間帯の交通量が、往復を合わせて 3,200台/時 とのことですから、一車線のラウンドアバウトで処理しきれない町というのは、地方には存在しないと考えても大外れではなさそうです。

 

在りし日の六角堂(常陸 五浦)
在りし日の六角堂(常陸 五浦)

010-7 東北の大地震  2011/3/18

 

 こういう災害時に腹蔵する意見を述べる不謹慎は置いて、仮にも社会をよりよい方向に導くつもりで書物を著わした以上は、こういう重大な事件から逃げずに意見を述べてみたいと思います。

 

 日本の地方都市は、どこも戦後再開発された中心市街地の疲弊が激しく、その中で、港町だけには今なお戦前からの街並みが残り、そうした物理的な制約もあって、中心部に穏やかな賑わいが残る唯一の存在とも言えます。
 三陸の漁業都市も、それぞれが集約された都会的な空間でもあり、どこも災害には敏感でありながら、大都会の人々のようにむやみに金と他人の力に頼ることなく、安全性を高めようと努力していたはずであるだけに、それでも防ぎきれなかったことには、技術というものの無力感を感じるばかりです。

 子供の頃、かつての三陸の津波の話を読んで、30m以上の山の上まで海の水が登って行くという光景をどうしてもうまく想像できませんでした。
 後に、海水が移動するためのボトルネックのない細長いくさび状の湾は、カナダのファンディ湾のように干満の差が大きくなりやすく、伊勢湾のように高潮の被害を受けやすく、三陸のように津波の被害が出やすいということを理屈で知るようにはなったものの、今回の地震では図らずも、なすすべもない圧倒的な水の量がすべてを押し流し、その記録の一つが山の上まで到達したという数字に過ぎないということも理解させられました。

 大きな自然災害に対しては、個人というのは無力なもので、ことに今回の地震のような史上最大級の地震と津波に襲われた場合、できることは自分の身を守ること以外にない、つまり何をおいても一散に逃げることしかないこと、どこかソドムの町から後ろを振り向かずに逃げることを命じられたロトの家族を思い浮かべるような、自然にはそういう非情な面があること、これを技術の力でねじ伏せられると考えること自体が思い上がりであることを思い知らされます。

 

 実は、十五年ほど前の奥尻の津波では、年寄りたちだけは一散に走って逃げて、若い世代は大事なものを持って周囲に気を配りながら逃げたそうで、その意識の差が生死を分けたと考えられます。
 当時は、打ち上げられた漁船のバッテリーから火が出たのを見て、「逃げる前に火を消さないからこんなことになる」と頓珍漢なことを言うテレビのコメンテーターもいましたが、一般の国民は、何もかも飲み込んでしまった悲惨さと恐ろしさを目の当たりにして多くのことを理解したようで、被災者一人当たり一千万円近くにもなる義捐金が集まりました。

 ただ、残念ながらその後メディアや学者がその状況を詳しく分析することは少なかったのか、今回も津波に飲まれた建物の残骸から火が出ているのを見ても、地震の専門の学者も説明ができないばかりか、奥尻の例を思い出すことすらできなかったのは残念なことでした。

 

       *
 
 自身のテーマに関して述べますと、都市の集約は鉄道と似ていて、平素の活動は非常に効率が良いものの、災害などに対しては脆弱で、これに対して地方の分散化された社会はクルマに似ていて、平素の活動は都会よりは効率が良くない反面、災害などの変事に対しては融通性が高い部分があり、そのどちらが良いとかではなく、両方の長所をうまく組み合わせた考え方で社会を建設することは可能であると考えています。

 都市は、その効率の良さから富と情報の蓄積が進み、都市民はつい自分たちが有能であると自惚れ易いのですが、その延長で物を考えるしか能がないと、都市の論理でいろんなシステムを組み上げがちになり、つい力づくで自然を支配したがるようになるものですが、自分たちの出来る範囲での都市化を目指すしかない地方都市の場合は、自然の恵みも非情さも理解しつつ、これと共存していくしか道はないと考えています。
 したがって、災害の救援に関しては、東京の政府が本気になりさえすれば効率よく物量を投じることが出来るはずで、もともと大都会よりも自助努力が行き届いた土地柄であるはずなので、比較的穏当な形で速やかな復興が可能であると考えています。

 
 日本に来たヨーロッパ人は、山の斜面に建つ家などに泊まると落ち着かないそうですが、反対に自身がオランダのような海面下の干拓地に住んだときには、水が襲ってきたときに逃げ場のない平たい地形に対して、しばらくは落ち着かない気がしました。
 オランダ人はその危険性を知りつつ社会を営んでいるので、水や堤防の管理は国家の安全保障上の重要な項目であり、それでも何十年に一度は予想を超えた洪水に見舞われて、小さくない被害を出すことがあるとも言われますが、それを信頼して過ごすしかないのが、外国人としての暮らしになります。

 和辻哲郎によると、日本と欧州とでは「洪水」のイメージが大きく違うそうで、日本では濁流が竜のように暴れて堤防を突き破り、家屋や田畑を蹂躙するのが洪水であるのに対して、欧州では堤防もない、ぎりぎりまで水で満たされていた川が長雨によって溢れ出る、確かに英語ではビールを注いで溢れさせるようなときにも"flood"と言いますが、それに似たイメージがあるようで、それでも地面が平たいと大きな被害になるようです。

 

 日本の場合、同じ平野の中でも、低い谷や湿地が埋まって出来る沖積平野が水利も良く稲作に適して早くから拓かれ、家を建てるのは稲作の邪魔をしない山の際で、山の水が使えることも重要だったと思われます。
 さらには江戸期には、潟湖や河跡湖(いわゆる三日月湖)を中心に干拓が進み、こうした低湿な土地は当然居住には適しないので、つい二十年ほど前までは美田として残されていました。

 実際に、仙台平野付近で津波の被害に遭った地域では、海岸付近で水が引かないエリアが、かつての潟湖の形に残っているようで、これは地震による沈降と説明されていますが、実際にはもともと人が住むには適しない土地が一部宅地化されていた可能性が高いと思われます。
 要は、江戸期の技術で津波や洪水を逃れ、農業生産を向上させようとした選択に対して、現代の技術がそれを克服できたかというと、実はなにも考えていなかったのに、社会の技術が進歩したのだから、なんとなく進歩しているはずだと思い込んでいたにすぎないようです。

 江戸期の下総台地などの場合は、沖積低地は水田にされて、山の水系から孤立した半島の洪積台地は水利が良くないので、幕府の牧場がひらかれましたが、水道という技術が確立した現代の宅地開発を考えると、比較的安全な土地柄であると言えます。

 つまり、大水の時には、残念ながら水田は水をかぶるけれども、人の住む少し高いところはその中に浮島のようにかろうじて残ることができる、それは、自然災害に対して、今よりもより無力だった時代の人々の自然の知恵のひとつであると言えます。
 それを考えると、現代において宅地開発する場合も、低湿な農地にはなるべく手を着けずにそのまま残し、少し高台に当たる洪積台地を中心に、計画的な市街化が行われるイメージを思い描くことができます。

 

 けれども、現実には、大都市の近郊を中心に、そうした湖の底のような土地も比較的安価に宅地化され、これが水害の被害を受けやすい土地となりますが、ではそうした低湿な土地を農地のまま残して、高燥な土地だけを市街化するようなメリハリのある開発は可能かというと、そこに日本人の根底にある意識が邪魔をするんじゃないかと考えています。

 というのも、今の年寄りが若い時代の記憶を想像すると、まとまった市街地や村の間に、暗い農地や雑木林が残ることを非常に恐れる傾向があり、出来れば市街地が連亘(れんこう)していてほしいと考えるもので、これは徒歩や自転車で通る時だけでなく、クルマで通る時にもそういう意識が働きます。
 そうした暗さへの恐れは、日本の郊外型バイパス文化をもたらした心理とも一致していて、ともかく暗いところがない連続した市街地に暮らしたがる、それが高じた結果が、東京という直径が二百キロにも及ぶ世界最大の都会という奇妙なものをもたらしたと考えています。

 けれども、仮に市街地どうしが連亘しないながら、人々の動線である道路だけに明るさを保つことは困難ではなく、安全な住宅地が集まる浮島の周辺に工場や事業所が建ち、その周囲に豊かな農地が残されているという図式を、安全な都市の構造の一つとして考えることは可能であると思います。

(2011/8/11 画像を追加)

 

追記  2011/4/9

 Googleマップには、震災後の航空写真が克明に反映されていて、メディアでは報じられない小さな浦々の被害状況なども目の当たりにして、暗澹とした思いを深めるばかりなのですが、その中で七ヶ浜町の状況を見ると、仙台平野内の他の海岸とは大きく異なり、海岸に近い住宅も、おそらく無傷ではないにしろおおむね原形をとどめていて、その中で低湿な沖積平野には水をかぶった跡が認められ、干拓地と思しき農地は今も浸水したままで、その周囲の高台に開かれた新興住宅地には大きな被害がないことが確認できます。

 ここは、高台の安定した地盤があるからこそ、無理に低湿な土地を宅地化する必要がなかったという意味で幸運な土地柄であったと思われますし、この奥にある国府のあった多賀城も、一の宮のある塩釜も、被害は相対的に非常に小さく、さまざまな災害に対してタフな土地であったことが、奈良時代の技術で国府などに選ばれたひとつの条件だったのかも知れません。

末の松山(2012年5月撮影)
末の松山(2012年5月撮影)

追記2  2012/3/11

 百人一首の清原元輔(清少納言のお父さん)の歌にある「末の松山」は、自身も子供の頃から親しみ、中勘助の「銀の匙」の中でも幼少期にその歌に興味を持ったとあり、芭蕉も近くを通った有名な歌枕ですが、先日十数年ぶりに「おくのほそ道」を読み返したら、「末の松山」が多賀城の近くにあることに気づき、このブログとの関連から調べてみました。
 「末の松山波越さじ」というのは、元輔が生まれる40年ほど前に起こった貞観地震による津波も、末の松山までは越えそうでも越えなかった、という意味で起こりえないことを指すそうで、貞観地震については、吉田東伍により多賀城の国庁の近くに海嘯が押し寄せたと考証されて以来、研究がなされているそうですが、「末の松山」は地図で見るとJR仙石線の多賀城駅のすぐ近くですから、多賀城の国府からは海岸寄りに1キロ余り、当時の海岸からはおそらく数百メートルほどの高くもない山でも、他の地域を壊滅させた津波から逃れられたことが当時から語り継がれたようです。

 

 もうひとつ、天皇陛下が昨年暮れの天皇誕生日に際してのお言葉の中で、奥尻の例について具体的に言及されたそうで、メディアを通じた玉石混交の情報を得るわれわれとは異なり、自衛隊員に対しても「アスベストに気を付けて」と言葉をかけるほど第一等の情報を得つつ、ご自身も大変な勉強家で、国民の生活に対して愚直に生真面目に心を砕き、自身の御世でたびたび起こる災害に心を痛めるお立場からは、やはり奥尻の地震は最も重要な教訓であったようです。
 歴史的に見ても、天皇家は国民の為に祈ることが中心的な職掌、職能であり、それゆえ手術後の予後のあまり良くない状態をおして追悼式に出席されたものと思われますが、一般の国民の立場、ましてや学者の立場は、もう少し具体的な形で国民を救うことが職掌になるはずです。

 

023-2 合理的な政策への流れ   2011/8/7

 

「2-2自動車の社会的費用/国の政策と自治体」(p60) より

 

 ここでは国の政策に関する部分は、将来の政策に関する予測として捉えていただきたいと考えています。
 というのも、逡巡や跛行ばかりが目立つように見える国の政策も、長期的に見れば数十年来の予測に沿った流れを辿るものが多く、....長期的には合理的な範囲内に収まらざるを得ないと考えられるからで、多くの場合その政策の雛形は西欧諸国に実在します。
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 ことに、経済のほか、資源や環境問題とも関係の深い交通政策などについては、諸勢力の利害を捨象してしまえば、比較的単純な技術的命題になりますから....

                   

 十年ほど前に、国内の旅先で大蔵省の若いキャリアと話をする機会があり、ちょうど欧州で見聞したばかりの様々な合理的な制度の話をしたところ、さすがに大体のところは認識していて、「なかなかよくわかってますね」とお誉めの言葉を頂戴したりもしました。調子に乗って訊いてみた「主計局と主税局の分離」についても余裕を見せ、さすがに法律作成業務の外注化の話には顔を顰めていましたが、こういう微妙な問題を除けば、世間に伝わる報道とは別に、優秀な霞が関の役人たちは、時間をかけながらもおおむね合理的な方向に進んでいることは分かります。

 

 利権が絡む微妙な問題についても、ある程度は合理的な方向へ進むと考える必要があります。
 拙著第四章の「道路にまつわる問題」の項では、郵政選挙に大勝した小泉内閣がガソリン税の一般財源化の検討をさせた際のメディアの消極的な報道と、自動車各社の社長が法被姿で銀座の街頭に立ち「一般財源化するなら暫定税率廃止を」という意味不明の訴えをした話を載せましたが (本書 p156)、この件に注目した人は自分以外にはあまりいないようで、実際にその後はすっかり沙汰やみになってしまいました。確かに、もし本気で進めようとしたら、政府内に検討部会をつくるか、委員会で審議させるはずで、一般財源化の「抵抗勢力」であるはずの国土交通省に検討させても進展は期待できず、実際に検討された形跡すらありませんから、小泉首相も、ただ言っただけで、あとは様子見を決め込んでいたのかもしてません。
 欧州の基準から言えば、ガソリン税が今の二倍の百円程度が「相場」であり、これを原資とすれば、毎年春の自動車税は一万円程度になり、高速道路料金は今の三分の一程度に、無料路線の割合も拡大し、というのが、いずれ向かわざるを得ない「合理的な道筋」であると考えてよいでしょう。

 

 ことが動いたのは、それから三年後の拙著が上梓された直後で、参院選で勝利して多数を占めることになった民主党が暫定税率を失効させることで一時的にガソリン税が下がったものの、当時の福田内閣は衆議院で再可決すると同時に、半ばどさくさまぎれに一般財源化も通してしてしまいました。
 当時の民主党の菅直人代表代行は、一般財源化の話が唐突である と言いながら、一般財源化が達成されたのちは我が党の成果であると吹聴するようになり、あまり言うとヤブヘビになると踏んだのかその後はおとなしくなりましたが、こうして国土交通省もメディアも自動車会社もなんのなすすべもないまま、誰かが悪者になることもないまま、この重要問題はひっそりと解決してしまいました。
 ただ、国民的な議論が喚起されなかったことは、その後の国民による選択に影響を与えているはずですし、安易にガソリン税の値下げという姑息的な政策で国民の歓心を買おうとした民主党は、その後のエネルギーと財政の問題を前にしても、政策の幅を大きく制約されることになりますから、合理的な道筋を見極めながら進むことは重要なわけです。

 

けれども、ひとたび諸勢力に配慮した弥縫策や折衷案に落ち着いたとしても、そうした一時姑息的な政策を過度に信頼し、我が意を得たつもりで強気の投資を行った結果、深刻な財政危機を迎えた自治体もあるようですから、慎重に見極める必要があります。 (本書 p61)

 

 これは、自治体向けに示したつもりでしたが、図らずも国の政権政党がその陥穽にはまってしまったことになります。